7月26日で、あの事件が起こってから10年になる。
2016年の夏、相模原市緑区の県立知的障害者施設「津久井やまゆり園」で、元職員の男が入所者19人を殺害、職員2人を含む26人が重軽傷を負った。この事件は、発生当時、戦後の日本で単独犯による殺人としては最も多い犠牲者を出した事件として、社会に大きな衝撃を与えた。
毎年今の季節になると、神奈川県では「ともに生きる社会かながわ憲章」という言葉が目に入るようになるが、皆さんは、この事件をどのように受け止めているだろうか。
一般的に「特異な思想を持った人物による、常軌を逸した事件」として受け止められがちなこの事件だが、私は別の問題も多く孕んだ事件だったのではないかと感じてきた。
10年という節目に、この事件について、あらためて考えてみたい。
■ 思想の順序が、逆だった
「特異な思想を持った人物による、常軌を逸した事件」という理解を根本から揺さぶる証言がある。
やまゆり園の元職員で現在は専修大学の講師である西角氏は、拘置所で加害者との面会を続けてきた。そこで見えてきたのは、加害者が事件の時点では優生思想という言葉も、ナチスがかつて障害者を組織的に殺した歴史も知らなかったという事実だ。
加害者は事件のあと、報道や差し入れられた本で知識をつけ、それを自らの行為を正当化するために使うようになったという。つまり、思想を持って殺したのではなく、殺したあとに得た思想で武装したことになる。
もし、思想が加害者を凶行へと向かわせたのであれば、その思想さえなければ、この事件も生まれる事はなかった。しかし、彼が凶行に及んだ時点にあったのは、思想ではなく、現場で形づくられた何かだったのだ。
その「何か」とは何だったのだろうか。不思議なことに、事件から10年が経っても、その「何か」についてほとんど何も語られていない。
それは何故なのだろうか。
■ 名前を、明かせない
この事件が、異様なのは、事件の残虐性と亡くなった被害者の数の多さだけではない。事件の裁判では、犠牲になった19人が、最後まで匿名のまま審理された。亡くなった入所者は「甲」、重軽傷を負った入所者は「乙」、職員らは「丙」と分けられ、それぞれに1人ずつアルファベットが割り当てられた。法廷では終始「甲A」「乙B」などと記号で呼ばれ、実名で呼ばれる事はなかった。
西角氏は、犠牲者が匿名であることに違和感を覚えると述べ、それは逆に「障害者はいなくなればよい」という加害者の主張を、そのまま認めることになりかねない、と指摘した。
子を、きょうだいを、あのような形で残虐に奪われてなお、遺族は名前を明かすことができなかった。殺されても、名を出せない理由は何だったのだろうか。
事件のあと、ネットの書き込みの中には「言わないだけで内心、肩の荷が降りたと思ってる人もいますよね?」「家族も安心しただろう」「加害者が『実名を公表しないのは、障害者が身内にいることを隠したいんだ』と語ったが、君たちの本音は?」といった心のない声が向けられた。
こんな人々がいるから、遺族は名前を明かすことができないのだと感じる人もいるだろう。
しかし、事件発生からわずか11日後に行われた追悼の場で、ある遺族はネットの声に反論するかのようにこう語っている。
「亡くなった19人のそれぞれの親なり兄弟、家族が加害者という立場に立っているけれども、同時に社会の被害者でもあるのです。我が家にそういう子がいることを隠さざるを得ない、恥と思わざるを得ないのは何だろうか。それは、社会という広い概念ではなく、世間というものなのです。世間が親を追い込んでいるのです。世間を作っているのは、私であり、皆さんです」と。
お分かりだろうか。この事件の匿名は、事件のあと家族に向けられた心ない関心を避けるために、行われたものではない。
世間の目を気にして隠してきた家族の後ろめたい心を晒したネットの言葉に反応し、そして、隠さなければ生きていけない世間を作ってきたのは、隠してきた私であり、それを強いてきたあなただと精一杯の反論をしているのだ。
家族は、ずっと以前から障害を持った身内がいることを隠してきた。
重度の障害のある身内がいる。ただその事実があるために、世間から陰口をささやかれ、後ろ指を指される。普通の家族なら感じなくていい精神的なストレスを、来る日も来る日も抱えながら生きて行かなければならない。
それがどれほど過酷なものかを、世間は理解しようとはしてくれない。おそらく、そこにある問題も、自分自身が家族を追い込んでいる1人という自覚も、世間の大半は予想だにしていないだろう。
しかし、これが、重度の障害者を持つ家族の現実なのだ。
■ コロニー
さて、ここでもう一度、最初の問いに戻りたい。加害者が凶行に及んだ時点にあった「何か」とは、何だったのか。
それを加害者一人の心の中に探しても、答えを見つけることはできないだろう。その「何か」は、彼が生まれるずっと前から、この社会が時間をかけて積み上げてきたものだからだ。
事件が起きたやまゆり園は、約150人もの行くあてのない重度の知的障害者が暮らす場所だった。人目のない山里にあり、そこでの生活は、買い物や外出の機会が乏しく、そのほとんどが施設の敷地の中で完結する「園内完結」型だったという。
偏見かもしれないが、私の経験から言わせてもらうと、特に昔からある障害者のための施設や病院は、その多くが世間を遠ざけたような場所に建てられているように感じる。これは、単に敷地代を抑えるためだけの理由だったのだろうか。それとも別の理由から、そのような場所に建てられてきたのだろうか。
国は、障害のある人を1か所に集めて暮らさせる大規模施設を「コロニー」と呼んでいた。もともとは植民地、移り住む土地を意味する言葉だ。日本では1960年代に、障害者福祉の課題としてコロニーの建設が唱えられ、1971年には群馬県高崎市に、定員550人という国立コロニー「のぞみの園」が開設された。同じ年、佐賀県にも県立のコロニーが作られている。
世界に目を向ければ、その頃、日本とは違う動きが起きていた。アメリカでは1972年、ニューヨークのウィローブルック知的障害者施設で、定員をはるかに超える人々を詰め込み、人間の尊厳を無視した処遇を行っていた実態が報道で暴かれた。
折しも公民権運動の時代であり、「障害があるという理由で施設に閉じ込めるのは人権侵害ではないか」という問いが生まれ、裁判でも不必要な施設収容は人権侵害だと判断されていった。
イギリスでも、障害のある人が地域で普通に暮らせるようにするコミュニティ・ケアの考え方が広がっていた。世界が施設から地域へと舵を切り始めた、まさにその時期に、日本は逆に、地域から隔てられた巨大施設を作る方向へ歩き出したのだ。
私は、欧米のやり方が正解で、日本が間違っていた、と言いたいのではない。
欧米の脱施設化にも、影はある。理念が先に走り、地域の受け皿づくりが追いつかず、施設を出た人が行き場を失って路頭に迷う、という別の悲劇を生んだのも事実である。急いで制度を変えれば、そこから抜け落ちていく人が必ず出る。制度の形そのものに、どこかに完璧な正解があるわけではないのだ。
■ 理念と制度の歪んだ狭間で
障害者に関する「隔離」という言葉にどのような印象があるだろうか。
それは、障害のある人をどういう存在として捉えるかによって、まるで意味が変わる。もし障害のある人を、地域で共に暮らす一人の隣人として捉えるなら、隔離は暮らしの場から人を追い出す、非人道的な行為になる。
しかし、障害のある人を、保護し、管理し、処遇する対象として捉えるなら、隔離は「守ってあげている」という善意の顔をして正当化される。行為は同じでも、捉え方で全く異なった意味を与える。
では、あなたは、障害のある人をどのように捉えているだろうか。
古今を問わず、障害者も健常者と同じように誰かの家族の一員であり、誰かの隣人であった。障害のある人を「地域から切り離して処遇する対象」とは誰も捉えていなかったのだ。
では、「地域から切り離して処遇する対象」としたのは誰なのか。それは、個人の心から自然に湧いたものではない。
障害者の未来を社会から切り離し、社会と交わる道を用意しなかったのは、他でもない国や県であった。制度を設計した彼らが優先したものは、障害者の未来か。それとも社会の未来だったのか。
コロニーが各地に建てられていた同じ時期、日本には旧優生保護法という法律があった。1948年から1996年まで存続したこの法律は、第1条に「優生上の見地から不良な子孫の出生を防止する」と目的を掲げ、障害のある人には本人の同意がなくとも不妊手術を認めていた。そして国会の調査は、その手術が福祉施設への入所や結婚の前提条件とされた事例があったことを確認している。施設で暮らすために、子を持つ道を断つことが求められたのだ。
つまり、国が描いた障害者の未来には、家族を持ち、次の世代へと続いていくという、人が当たり前に歩むはずの道が、はじめから含まれていなかった。切り離すことと、その先を断つことは、同じ一つの考え方の両輪だったのだ。
人権や福祉の追求を理念としながら、制度は社会からの「切り離して処遇する対象」としていた。福祉の現場は、理念と制度との決して噛み合わない歪んだ狭間で、日本の福祉は正されることなく長い間運用されてきたのである。
■ 全部、同じ根から生えている
隠さなければ生きていけない家族。外と遮断された入所者。夜勤5人で約150人をみる現場。理念と制度との狭間ですり減っていく職員。これらは、バラバラの問題のように見えるが、私には、すべてが一つの根から生えているように思えてならない。
その根とは、国や県が障害のある人を「地域から切り離して処遇する対象」として捉えたことによる世間の意識だ。自分たちの生活から離れた場所に重度の障害者を置き、その世話を一部の人に押し付け、自分は関わらずに生きる——それが当たり前だ、正当だ、という世間を育ててしまった。
この世間の恐ろしさは、加害の自覚がないことにある。誰も手を下していない。誰も悪意を持っていない。それなのに、全員でこの構造を維持し続けている。加害者に石を投げる人もまた、その世間の一員として、彼が凶行に及ぶ舞台を、毎日少しずつ作り続けていたのではないか。
■ その世間の中に、私もいた
ここまで書いて、私自身、自分を棚に上げることができない。
私は10年前、重度の障害者になった。
それまでの私は、重度の障害を持つ人がいることは知っていた。しかし、障害のある人と関わりなく生きて来ることができ、これからも関わる事はないだろうと思っていた。いや、思いもしなかったと言った方が正確である。
皮肉にも自分がこの身になって、初めて、その辺縁に触れ、ようやく見えてきた。障害のある人が、どれほど遠ざけられてきたか。そして、その遠ざける仕組みを、私自身がどれほど無意識に自然とやってきていたかということを。
私もまた、障害のある人を自分の生活から遠ざけることに、平気でいた世間の大多数の1人だったのだ。
■ 憲章は語られ、本質は語られない
この10年で、変わったものもある。神奈川県は事件の年に「ともに生きる社会かながわ憲章」を制定した。事件が起きた7月26日から、わずか2か月半後のことだ。憲章は、次の4つを掲げている。
一つ、あたたかい心をもって、すべての人のいのちを大切にすること
一つ、誰もがその人らしく暮らすことのできる地域社会を実現すること
一つ、社会参加を妨げるあらゆる壁と、いかなる偏見や差別も排除すること
一つ、県民総ぐるみで取り組むこと
憲章の言葉は、どれも美しい。あたたかい心。自分らしく暮らせる環境。偏見や差別の排除。県民総ぐるみ。だが、そのどれもが、一人ひとりの心がけを説くものであって、なぜあの事件が起きたのかという構造——国と県が「社会と切り離して処遇する」制度を作り、その制度が捉え方ごと私たちに隔離を根づかせてきた、その歪み——には、ほとんど触れていない。事件を加害者1人の心の問題にして終わらせれば、制度を作ってきた側は、問われずに済む。
国の制度の方向は、今は「地域でともに」へと転換しつつある。障害者権利条約が地域で暮らす権利を掲げ、国も施設入所者を減らす目標を立てている。方向は変わった。
だが、方向を変えたからといって、制度が作ってきた現実が、すぐに消えるわけではない。全国では今も12万人を超える人が入所施設で暮らしている。地域での生活へ移った人の割合は、事件後の4年間で4.9パーセントにとどまり、政府目標の9パーセントを、大きく下回っている。
造るときは、全国で一斉に造れた。けれど、戻すときは、この速度だ。制度が一度根づかせた捉え方は、それほど重い慣性を持っている。憲章の美しい言葉は、ともすれば、その重い現実を隠す幕にすらなりかねない。
毎年7月25日には追悼式が開かれ、26日の命日には園の鎮魂のモニュメントで献花が受け付けられ、地域の人や子どもたちのメッセージを記した灯籠が、500ほど並ぶという。事件の翌年から、地域の人たちが毎月の月命日に献花を続け、その回数は100を超えた。
しかし、どれだけの人が、自分の中にある世間に気づいているのだろうか。亡くなった19人の名前を明かせなくさせたのは、遠くの誰かではない。
制度をつくってきた国や県であり、その制度を当たり前として生きてきた、私であり、あなただ。そして今もなお、それは続いているのである。
■ まとめ
10年前に津久井やまゆり園で起きたこの事件は、重度の知的障害者が集められた大規模施設で元職員の男により起こされた。事件当時、単独犯による殺人としては戦後最も多くの人々が殺された残虐な事件だ。
しかし、この事件を、特異な思想を持った加害者によって引き起こされた事件として見ると、真相を捉えることはできず、真の意味での事件解決にはつながらない。それどころか、私たちの中にある無意識の意識の中で、第2、第3の加害者を誕生させる可能性すらあるのだ。
亡くなった被害者は「意思疎通ができない」ことを理由に殺された。しかし、彼らは意思表現は限定的であったかもしれないが、意思がなかったわけではない。意思はあったのだ。
残念なことに、事件発生から10年経っても、未だにほとんどの方々が、実名を公表されていない。そこに、この事件の真相が集約されている。この事件は未だに真に解決されず、続いているのだ。
だからこそ、私は彼らが殺されたという事実だけではなく、事件当日、なぜあの場にいたのかも含めて、彼らの声に耳を傾けることが、語りたくても語ることのできなかった被害者への、せめてもの弔いとなり、また、このような事件を二度と起こさせないためのきっかけになるのではないかと考える。
亡くなられた19人の方々に、心からの哀悼の意を捧げます。黙祷。