「日本人がパンや麺を好むようになったから、米の消費が減った」。私たちは長い間、そう聞かされてきました。米離れは、まるで人々の好みが自然に移り変わった結果であるかのように語られます。しかし、本当にそうでしょうか。終戦直後、米を食べたくても食べられなかったこの国の人々が、なぜ経済が豊かになってもなお、米に戻らなかったのか。私はここに、「自然な変化」では説明しきれない、政策の足跡があると考えています。
■ 数字が語る、米の「ひとり負け」
まず事実を確認します。カロリーベースの食料自給率は1965年の73%から、2023年には38%まで落ちました。この約35ポイントの低下のうち、およそ20ポイントが「米を食べる量が減った」ことで説明できるとされています。
米の1人あたり年間消費量は、ピーク時の1962年に約118キログラム。それが今では50キログラム台へと、半分以下になりました。昭和30年代の日本人は、ほぼ毎食ごはんを食べていた計算です。一方で、肉類は1965年の年9.2キログラムから現在は34キログラム超へと約4倍に増えました。畜産物の飼料の大半は輸入ですから、肉を食べるほどカロリーベースの自給率は下がる。米が減り、輸入に支えられた食が増える――これが半世紀の構図です。
問題は、「なぜそうなったのか」です。
■ 戦前は「自給」だった――出発点を見直す
意外に思われるかもしれませんが、戦前の日本は穀物を国としてほぼ自給していました。小麦も大麦も戦前は完全自給。不足分は台湾・朝鮮といった当時の外地からの移入で補っており、外国からの穀物輸入は限られていました。とうもろこしを飼料として大量に輸入する習慣も、ほとんどありませんでした。
それが、敗戦で外地を失ったことで決定的に変わります。植民地を前提にした食料の需給構造には、もう戻れなくなったのです。1950年代前半には、人口増もあって主要食糧の輸入依存度は2割を超え、完全自給だった小麦の自給率は4割まで落ちました。
ここからが、本論です。
■ 前史――食の対米依存は「占領期」に始まっていた
多くの人は、アメリカ産小麦への依存は1954年のMSA(相互安全保障法=Mutual Security Act。冷戦下の米国の軍事援助の枠組み)から始まったと考えがちです。しかし実際には、その土台は敗戦直後の占領期に、すでに9年がかりで築かれていました。
始まりは1946年です。終戦直後の深刻な食糧難の中、まず子どもの命をつないだのは、アメリカの民間救援団体「ララ」(LARA=アジア救援公認団体。米国の宗教・労働・社会団体などが連合した日本向け民間救援組織)の寄贈物資でした。同年12月、ララ物資の脱脂粉乳や小麦粉をもとに、東京・神奈川・千葉の児童約25万人を対象に戦後の学校給食が再開されます。いまも12月24日が「学校給食感謝の日」とされているのは、この出来事に由来します。なお、「アメリカの善意」と語られがちなララ物資は、その多くが実はアメリカへ渡った日系移民たちによって送られたものでした。
そして占領期の食料供給の本体となったのが、ガリオア資金(GARIOA=占領地域救済政府資金。米国陸軍省予算に基づく占領地への援助資金)です。これは1946年にアメリカ議会が占領地の飢餓・疾病を防ぐために設けた援助資金で、予算規模は1947年度に7億2500万ドル、翌年度には10億ドルにのぼりました。この資金は主に食糧援助にあてられ、小麦・小麦粉・とうもろこし・大豆粉など、占領期の日本が輸入した食料の大部分が、ガリオア資金によってアメリカから供給されました。この時期すでに、日本人が口にする輸入食料のほとんどはアメリカ産だったのです。
ただし、見落とせない点があります。ガリオアは「援助(贈与)」の形をとっていましたが、講和発効後にこれは「債務」とされ、約4億9000万ドルの返済協定が1962年に結ばれ、年利2.5%・15年分割で1973年まで返済が続きました。タダで与えられたのではなく、後に国民の税金で、利息をつけて返したのです。
この流れは、1951年のサンフランシスコ講和条約調印に伴うガリオア打ち切りで、いったん途切れます。命綱だったガリオア援助の小麦が止まると給食費が高騰し、給食を中止する学校が続出しました。この「空白」を埋めるように現れたのが、1954年のMSAとPL480だったのです。
■ MSAとPL480――冷戦戦略としての「小麦」
占領が終わってもアメリカには大量の余剰農産物があり、その有力な売り先として、引き続き日本が注目されます。1954年3月、日本はMSA協定(相互安全保障法に基づく日米間の協定)に調印しました。これは相互防衛援助・農産物購入など4つの協定からなり、本質は冷戦下の軍事援助の枠組みでした。この協定で日本は、小麦60万トン・大麦11.6万トン・脱脂粉乳など総額5000万ドルの米国余剰農産物を受け入れます。
注目すべきは、その仕組みです。受け入れた農産物を国内で売り、その代金を積み立て(見返り資金=援助物資を国内で換金して積み立てた資金)、5000万ドルのうち4000万ドルは米国側の取り分として日本への軍事援助に、残り1000万ドルが日本の経済復興に使われました。戦後の自衛隊の発足・再軍備は、この余剰農産物を活用して進められたのです。「食料」と「再軍備」が一本の糸で結ばれていた。これがMSAの実像です。
同じ1954年の7月、アメリカはPL480(Public Law 480=公法480号。通称・農業貿易促進援助法、または余剰農産物処理法)を成立させます。これは余剰処理をより本格化させた仕組みで、貧しい国に好条件で農産物を買わせ、長期的・安定的に米国産農産物の市場を確保しようとするものでした。日本は、その最も有望な市場と見られていました。
そして、この「市場確保」は、70年たった今も生きています。日本の小麦の自給率は、わずか15〜16%。残りの8割以上を輸入に頼り、その輸入先はアメリカ・カナダ・オーストラリアの3か国でほぼ100%を占めます。中でもアメリカ産は輸入小麦の約4割。供給全体に占める割合を計算すると、私たちが口にする小麦のおよそ3分の1が、今もアメリカ産です。半世紀以上前に「最も有望な市場」と見込まれた構図は、数字の上で今なお続いていると言えます。
■ そして「飼料穀物」が爆発的に増えた
戦前と戦後で最も激変したのは、実は小麦ではなく飼料穀物(=家畜の餌になる穀物。主にとうもろこし・大豆粕など)でした。高度経済成長で肉・卵・牛乳の消費が増えると、家畜の餌が大量に必要になります。
戦前ほぼゼロだったとうもろこしの輸入は、いまや年間約1,600万トン。これは国内の米の年間生産量の約2倍にあたり、その約9割がアメリカ産です。現在、日本は毎年約3,000万トンもの穀物を輸入し、小麦・大豆・とうもろこしなど穀物系だけで約2,430万トンが輸入。一方、米は約700万トンをほぼ自給しています。
私たちの食料自給率が38%まで落ちた最大の物量的な要因は、この飼料穀物の輸入急増にあります。肉を食べる食生活そのものが、戦前には存在しなかった2,400万トン規模の穀物輸入を生み出した――米離れは、こうした食卓全体の構造転換と一体だったのです。
そしてこの飼料輸入は、食料自給率の計算そのものを直接押し下げています。カロリーベース自給率では、国産の畜産物に輸入飼料が使われている場合、その分は「国産」から差し引かれる仕組みになっているからです。実際の数字で見ると、国産の鶏卵は見かけ上97%が国産でも、飼料を考慮した実質自給率はわずか12%。同様に、牛乳・乳製品は61%が16%に、牛肉は40%が9%に、豚肉は49%が5%に、鶏肉は65%が9%にまで下がります。つまり、私たちが「国産」と思って食べている肉や卵や牛乳の大半が、自給率の計算上は「輸入」として扱われているのが実態です。仮に飼料輸入分も国産として計算すれば、日本の自給率は38%ではなく約47%。逆に言えば、飼料の輸入依存だけで自給率を約9ポイントも押し下げているのです。
これは単なる計算上の話ではありません。台湾有事などで輸入が止まれば、見かけ上97%の鶏卵も、飼料が来なくなった瞬間から数か月で生産が立ち行かなくなります。「飼料を考慮した実質自給率12%」のほうが、有事の現実に近い数字なのです。
■ 学校給食とキッチンカー――食習慣はこうして変えられた
受け入れた小麦を国内で消費するため、何が行われたか。厚生省は日本食生活協会(粉食=パン・麺など小麦料理の普及を担った財団法人)を設立し、「栄養改善運動」(=戦後、国民の栄養状態を改善する目的で展開された厚生省主導の食生活キャンペーン)を展開します。その柱が、学校給食のパンと脱脂粉乳でした。1954年に学校給食法ができ、パンを主な食材とする給食が全国に広がります。
さらに、アメリカの資金で製造・運行された「キッチンカー」(=移動式の料理講習車。荷台に調理台を備えたトラックで地方を巡回し、パンや小麦料理を実演宣伝した)が全国を回り、パンや小麦・大豆油を使った料理を実演して宣伝しました。1956年からの5年間で、その動員は2万会場・延べ200万人にのぼります。学校給食、パン職人の養成など、数百の事業を通じて、戦後日本人の食生活はパン・牛乳・肉・油・乳製品という欧米型へと転換していきました。
ここで、お金の流れを正確に見ておきたいと思います。よく「政府が小麦を使う企業に補助金を配った」と語られることがありますが、当時の史料で確認できるのは、それとは少し違う構図です。中心にあったのは、企業への補助金ではなく「需要そのものを作り出す」働きかけでした。政府は1950年代後半から、「コメと野菜では日本人の身体は強くならない」として、自ら食の洋風化を奨励・推進しています。そして、その普及を担った団体の資金は、アメリカ側から出ていました。粉食を広めた日本食生活協会はオレゴン州の小麦生産者団体によって設立され、PL480の資金で運営され、全国学校給食会連合会(=学校給食用物資の供給を担った組織)はワシントン州の小麦生産者団体の援助を受けていたのです。お金の主役は「日本政府による企業向け補助」ではなく、「政府による需要創出キャンペーン」と「アメリカの小麦生産者団体の資金」だった――ここは正確に区別しておくべき点です。
ここで、当時のキャンペーンの中心となった「コメと野菜では日本人の身体は強くならない」というフレーズそのものを、栄養学的に検証しておきたいと思います。一見もっともらしいこの言葉には、巧妙な仕掛けが隠されています。たしかに戦後直後の日本人は深刻な栄養不足の状態にあり、特に動物性タンパク質が不足していたことは事実です。しかし、本来の伝統的な日本食は「コメと野菜」だけではありません。大豆(豆腐・納豆・味噌)と魚介類という、れっきとした優れたタンパク源を柱として持っていました。1960年時点でも、日本人が摂取するタンパク質の65%は植物由来で、その中心は大豆製品です。「大豆と魚を多く摂る食事」は今や、心臓病の予防や長寿に寄与する食事として世界的に評価され、和食は2013年にユネスコ無形文化遺産に登録されています。
つまり「コメと野菜」という括り方は、伝統食の柱である大豆と魚を意図的に切り落として、伝統食全体を「貧弱な食事」に見せかける、矮小化された表現だったのです。栄養学的に正確に言うなら「戦後直後はタンパク質、特に動物性タンパク質の補強が必要だった」となるはずですが、それでは伝統食を否定する根拠にはなりません。「コメと野菜では」と言うことで初めて、パン食・肉食・乳製品への全面転換を正当化できる――そういう構造になっていました。
そして決定的な矛盾を一つ指摘します。「タンパク質が足りない」と伝統食を否定しておきながら、代わりに広められた小麦粉は、そもそもタンパク質ではなく炭水化物です。本当にタンパク質を補いたいなら、まず手を伸ばすべきは大豆と魚の増産であり、小麦ではありませんでした。それでも小麦が選ばれたという一点に、このキャンペーンが純粋な栄養改善ではなく、米国の余剰小麦の市場を確保するための政策だったことが、最も鮮やかに表れています。
そして皮肉なことに、現在の日本人のタンパク質摂取量は、1995年のピーク(1人約80g/日)から減り続け、いまや戦後直後の1950年代と同水準まで逆戻りしています。摂取カロリーに至っては、「飢餓状態」と呼ばれた1946年の水準を下回る年すらあります。「コメと野菜では身体は強くならない」とパン食・肉食を広めてきた政策の延長線上で、私たちはむしろ栄養を失っていったのです。半世紀の壮大なキャンペーンの末に行き着いた現在地が、出発点と同じ場所だった――この事実は、当時の言葉を疑うべき強い理由になります。
見落としてはならないのは、子どものころから給食でパンに親しんだ世代が、大人になってもパンを食べ続けたという点です。食習慣は、一世代では終わりません。学校給食を通じた食の転換は、世代をまたいで需要をつくり出す、極めて息の長い「市場開拓」でもあったのです。米離れは、人々の好みが自然に移り変わった結果ではなく、こうして政策的に作り出された流れだった――私はそう考えています。
ただし、誤解を避けるために付け加えます。この一連の事業は、日本側と入念な協議を重ね、日本政府が了承し契約を交わした上で行われたものでした。「アメリカに一方的に騙された」のではなく、「日本政府が合意の上で進めた」というのが正確な姿です。だからこそ、責任の半分は、私たち自身の側にもあります。
■ 経済が回復しても米は戻らなかった――国内農政という第二の原因
ここからが、もう一つの、そしておそらくより本質的な原因です。経済が豊かになっても米の消費が戻らなかったのは、アメリカのせいだけではありません。日本自身の農政が、それを後押ししてしまったのです。
米の消費が減り始めると、政府は米が余って価格が下がるのを防ぐため、1970年代以降、「減反政策」(=米の生産調整。作付け面積を計画的に減らし、転作させることで生産量を抑え、米価を維持する政策)を続けました。米価を高く保つ政策です。しかし、これが裏目に出ます。同じ料理を作るなら、高い国産米よりも安い輸入小麦のほうがコストは低い。だから食品メーカーも外食産業も小麦を使った商品開発に向かい、消費者も安い小麦製品を選ぶようになりました。高い米を守ろうとして米価を吊り上げた結果、かえって人々が小麦へ流れ、米離れが固定化されたのです。
農業経済学者からは、「本来なら米価を下げて生産を抑えつつ消費を拡大し、逆に麦の生産を増やす政策を採るべきだったのに、逆をやった」という厳しい批判もあります。
■ 田畑が減り、担い手が消える
こうして米作りの魅力が失われていく中で、農業の現場そのものも縮小しました。農地は宅地や工場用地への転用で減り続け、耕地面積は1971年から半世紀にわたって減少を続けています。さらに、米を作らず別の作物に転換すると交付金が出る仕組み(水田活用の直接支払交付金=もとは減反のための転作奨励金。麦・大豆・飼料用米などへの転換に10アールあたり数万円を支給する制度)によって、水田の役割も変えられていきました。
そして今、農業の主たる担い手(基幹的農業従事者=主な仕事が自営農業である人。普段の主な状態が「仕事」で、その仕事が自営農業の人を指す統計区分)の平均年齢は69.2歳。20年で従事者は半減し、稲作の所得は他の作目に比べても低い。米を作っても食えない構造が、若い世代を農業から遠ざけています。米離れと農業衰退は、別々の現象ではなく、地続きの一本の流れなのです。
■ 歴史を知ることは、未来を選び直すこと
私はこの歴史を、「誰かを断罪するため」に語るのではありません。アメリカの戦略も、それを受け入れ、さらに減反で追い打ちをかけた日本の農政も、どちらも事実として直視した上で、ではこれから私たちは何を選ぶのか――それを考えるために語っています。
米離れは、運命でも、単なる好みの変化でもありませんでした。1946年のララ物資とガリオア、1954年のMSAとPL480、栄養改善運動と学校給食、そして減反政策。これらすべてが折り重なって、今の食卓があります。政策がつくった流れであるならば、政策で選び直すこともできるはずです。学校給食に地元の米飯を増やすこと、稲作を安全保障インフラとして支えること、消費者として国産を選ぶこと。小さな選択の積み重ねが、半世紀の流れに抗う力になります。歴史を知ることは、過去を嘆くためではなく、未来を自分たちの手に取り戻すためにあるのだと、私は信じています。